スキップしてメイン コンテンツに移動

家制度:戦後の家制度の廃止と民法改正

 日本において離婚後等単独親権制が定められたのは、明治時代である。明治31年(1898年)に施行された明治民法では家制度という家族のあり方が規定された。は、家族戸主(家長)で構成された(明治民法第732条)。戸主は、家族に対して扶養の義務を負った(同第747条)。

 戸主は、原則として男性だった。そして、戸主には、次のような戸主権があった。

1.家族の婚姻・養子縁組に対する同意権

2.家族の入籍または去家に対する同意権

3.家族の居所指定権

4.家族の入籍を拒否する権利

5.家族を家から排除する(離籍)権利 

 戸主は、このような家族に対する絶大な権限を持つ一方で、家族は戸主を敬い、戸主は家族を扶養する義務を負っていた。このようなことから、離婚後等単独親権制との関係で次のようなことが言える。

1.子どもは、必ずしも父母ではなく、戸主に扶養されていて、「家」に帰属していた。

2.戸主の権限によって、家に合わない子の父親または母親を自由に追い出すことが出来た【子どもの連れ去り、父母の追い出しの容認】

3.家を出た子どもの父母は他人であり、子どもを扶養する必要はなかった。子どもの扶養義務は戸主にあった【家を出た父母(別居親)による子どもの養育費の免除】

 

 これが家制度を起源とする離婚後等単独親権制の実態である。家制度自体は、戦後に憲法が施行され、個人の尊重や男女の平等などにおいて憲法に反し、廃止された。民法は改正されているものの、現在でも、ひとり親家庭における子どもと別居親との面会交流の実施率は3割程度、養育費の支払いを受けている割合は2割程度である。このような実態は、離婚後等単独親権制の運用において家制度の影響が色濃く残っているためだと言える。


 

 戦後、憲法が施行され民法が改正され家制度は廃止された。ここでは、離婚後等単独親権制との関りで、特に養育費面会交流に関して、どのような民法改正がされたのかをみてみたい。
 戦前、家を出て他人となった父母に子どもの扶養の義務はなかった。そのような家を出た父母に子どもの扶養の義務を課す法律として民法第877条が戦後制定された。他にも民法では、親族間の扶け合い(第730条)や夫婦の同居、協力及び扶助の義務(第752条)などが定められているが、離婚によって夫婦でなくなった、あるいは、夫婦でなくなる父母にとっては、これらの民法よりは扶養義務者を定めた第877条の方が子どもに対する扶養の義務が明確である。この法律は、年老いた父母に対する子どもや兄弟姉妹の扶養の義務なども規定するが、離婚によって他人となっている父母を子どもと結びつけることになる。子どもの親権者である父母は、子どものために、子どもと別居する一方の親から子どもの養育費を受け取る権利を持つことになる。
 民法第877条は、直系血族間における家制度の扶養の義務を維持し、兄弟姉妹の関係をつないでいる。



 次に、民法第766条をみてみたい。同条は改正され2012年4月に施行されるまでは、協議離婚において、または、家庭裁判所を通しての離婚において子の監護すべき者と並行して、その他監護に必要な事項を決めることになっていた。これに対して、日本でも1994年に「子どもの権利条約」が批准され、子どもと別居親の「面会交流」や別居親による子どもの「養育費」の支払いの重要性が高まった。前述のような明治時代以前からの家制度との関係では、日本において子どもと別居親との面会交流は必要ないものだった。また、別居した父母による子どもの養育費の支払いも必要なかった。さらに、子どもの権利条約の批准によって、親の権利としての親権よりも、子どもの権利に対応する親の義務や責任が重視されるようになっている。離婚をめぐる父母の協議や裁判においては、子どもの実質的な所有者としての親の権利や都合ではなく、子どもの権利子どもの人権、そして、何よりも「子どもの最善の利益」を考えなければならないものとされた。
 民法改正によって、面会交流(面接交渉)や養育費という改正以前に子の監護に必要な事項とされていたものが具体的に明示されるようになった。面会交流と養育費が明示されたことから、子どもと別居親の面会交流の権利、別居親が子どもに対して(子どもの監護者に対して)養育費を支払う義務の根拠を見出すことも出来るであろうが、実際の法律の運用では、面会交流も養育費の支払いも取り決めをすることなく離婚することが出来る。それら監護・養育における重要事項は、権利義務として認められているとは言い難い。離婚届けには、面会交流や養育費について取り決めをしたかを問うチャック項目が設けられている。しかし、未成年の子どもがいる場合でも実際にそれらを取り決めなくても、子どもの親権者を父母のどちらにするかさえ決めれば離婚届けは受理され、離婚は成立する。


 明治民法で定められた家制度の名残が、離婚後等単独親権制、戸籍制度、夫婦同姓などである。同じ戸籍に入る者が同じ「家」に帰属していることになっていた。夫婦は同一の「家」の姓(氏)を名乗ることになっている。
 戸籍制度にしても夫婦同姓の問題にしても柔軟に運用出来るように思う。夫婦同姓(別姓)の問題では、手続き上、夫婦を同姓としても、実質的に夫婦別姓を実現する色々な運用形態が考えられる。
 ここでは、明治時代以前の「家制度」を起源として現在も存続する離婚後等単独親権制の問題について議論を進める。
 離婚後等単独親権制の根幹をなす民法第819条が維持される限り、民法にどのような条文が加えられたとしても、民法の運用の実態は変わらないであろう。
 離婚後等単独親権制では、「子どもの親は一人で十分」、「子どもは、父母の一方(主に母)との愛着の形成が大切」、「子どもの扶養義務は、親権者(戸主)が負い、別居親に扶養義務はない」、「子どもと別居親との面会交流は必要ない」というのが基本的な成り立ちである。
 離婚後等単独親権制とは、本来、子どもの連れ去り(父母の追い出し)を容認する代わりに、別居親による子どもの養育費の支払いを免除する制度であったと言える。なお、離婚後に子どもと別居する父母は、陰ながら子どもの成長を見守ることが美徳であるなどとされていた。そこに子どもと別居親の面会交流の余地はなく、それが子どものためにも良いとされてきた。今日でも、そのような離婚後の親子観を持っている高年者は少なくないようである。



コメント

このブログの人気の投稿

ハーグ条約と国内法制度の矛盾

  1970年には年間5,000件程度だった日本人と外国人の国際結婚は、1980年代の後半から急増し、2005年には年間4万件を超えた。これに伴い国際離婚も増加し、結婚生活が破綻した際、一方の親がもう一方の親の同意を得ることなく、子どもを自分の母国へ連れ出し、もう一方の親に面会させないといった「子の連れ去り」が問題視されるようになった。このため、外国で生活している日本人が、日本がハーグ条約を未締結であることを理由に子どもと共に日本へ一時帰国することができないような問題が生じていた。   世界的に人の移動や国際結婚が増加したことで、1970年代頃から、一方の親による子の連れ去りや監護権をめぐる国際裁判管轄の問題を解決する必要性があるとの認識が指摘されるようになった。そこで、1976年、国際私法の統一を目的とする「ハーグ国際私法会議(HCCH)」 は、この問題について検討することを決定し、1980年10月25日に「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約(ハーグ条約)」を採択(1983年12月1日発効)した。2019年10月現在、世界101か国がこのハーグ条約を締結している。  国境を越えた子の連れ去りは、子どもにとって、それまでの生活基盤が突然急変するほか、一方の親や親族・友人との交流が断絶され、また、異なる言語文化環境へも適応しなくてはならなくなる等、有害な影響を与える可能性がある。ハーグ条約は、そのような悪影響から子を守るために、原則として子どもを元の居住国に迅速に返還するための国際協力の仕組みや国境を越えた親子の面会交流の実現のための協力について定めている。  ハーグ条約の目的は次の2つである。 1.原則として子どもを元の居住国に返還する  ハーグ条約は、監護権の侵害を伴う国境を越えた子どもの連れ去り等は子どもの利益に反すること、どちらの親が子の監護をすべきかの判断は子の元の居住国で行われるべきであること等の考慮から、まずは原則として子どもを元の居住国へ返還することを義務付けている。これは一旦生じた不法な状態(監護権の侵害)を原状回復させた上で、子どもがそれまで生活を送っていた国の司法の場で、子の生活環境の関連情報や両親双方の主張を十分に考慮した上で、子どもの監護についての判断を行うのが望ましいと考えられているからである。 2.親子の面会交流の機会を確保する ...

アメリカ:世界の離婚後共同親権制は40年前にカリフォルニア州から始まった

 アメリカでも日本と同じように離婚後に父親に親権を与える時代があった。その後、父親の絶対的優位が修正され、20世紀になると母親優先が判例法によって確立していった。州によって違いはあるものの平均して85%近くの場合、母親に単独監護権(親権)が与えられるようになった。 このような 母親優先の原則 の背景には、 乳幼児期の原則 (tender years doctrine)と呼ばれる不適格な母親でない限り、3歳以下の乳幼児においては母親が優先されるという考え方があった。このような母親優先の考え方は、母親神話を生み、性役割分業観に基づく生活実態に支えられた。  しかし、1970年代から1980年代にかけて男女の役割分業観に変化が生じ、男女平等が本格的に進むと乳幼児の推定原則や母親優先の原則は批判され、性的に中立な「 子どもの最善の利益 (the best interests of the child)」が重視されるようになった。  それでも母親優先の原則が根強かったのは、子どもが3歳以下の場合に監護者になりたいと答える父親がいなかったことや「 同胞不分離の原則 」によって3歳以下の子どもがいる場合は、父親が、その兄弟姉妹の監護者になることを望んでも、同胞不分離の原則によって子ども達全員の監護権が母親に委ねられるという現実があったからである。  母親優先の原則が根強かった1970年代の論争として有名なのがゴールドスティンらの主張とそれに対する反論である。ゴールドスティンらは「子の最善の利益を超えて」という著書の中で、子の監護紛争では継続性を重視すべきだとした。子どもの健やかな成長発達のためには養育環境の安定こそが重要であり、子どもは大人のように待つことはできず、時間的感覚が違うので、子どもが現在または将来密着した関係を築く「心理的親 (psychological parent)との関係を尊重しなければならないとした。ここでは実の親よりも心理的親子関係を形成している大人を指定し、養育環境の継続性を重視した。それは、現状が落ち着いていれば変更する必要はないと受け止められ、多くの批判を浴びた。  ゴールドスティンらは「 法的制裁を加えてまで行わせようとする面会交流のあり方はおかしいのではないか 」という問題も提議をした。これに対して「 両親が別居・離婚して、監護権が一方の親に委...