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ハーグ条約と国内法制度の矛盾

 1970年には年間5,000件程度だった日本人と外国人の国際結婚は、1980年代の後半から急増し、2005年には年間4万件を超えた。これに伴い国際離婚も増加し、結婚生活が破綻した際、一方の親がもう一方の親の同意を得ることなく、子どもを自分の母国へ連れ出し、もう一方の親に面会させないといった「子の連れ去り」が問題視されるようになった。このため、外国で生活している日本人が、日本がハーグ条約を未締結であることを理由に子どもと共に日本へ一時帰国することができないような問題が生じていた。

 世界的に人の移動や国際結婚が増加したことで、1970年代頃から、一方の親による子の連れ去りや監護権をめぐる国際裁判管轄の問題を解決する必要性があるとの認識が指摘されるようになった。そこで、1976年、国際私法の統一を目的とする「ハーグ国際私法会議(HCCH)」は、この問題について検討することを決定し、1980年10月25日に「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約(ハーグ条約)」を採択(1983年12月1日発効)した。2019年10月現在、世界101か国がこのハーグ条約を締結している。

 国境を越えた子の連れ去りは、子どもにとって、それまでの生活基盤が突然急変するほか、一方の親や親族・友人との交流が断絶され、また、異なる言語文化環境へも適応しなくてはならなくなる等、有害な影響を与える可能性がある。ハーグ条約は、そのような悪影響から子を守るために、原則として子どもを元の居住国に迅速に返還するための国際協力の仕組みや国境を越えた親子の面会交流の実現のための協力について定めている。



 ハーグ条約の目的は次の2つである。

1.原則として子どもを元の居住国に返還する

 ハーグ条約は、監護権の侵害を伴う国境を越えた子どもの連れ去り等は子どもの利益に反すること、どちらの親が子の監護をすべきかの判断は子の元の居住国で行われるべきであること等の考慮から、まずは原則として子どもを元の居住国へ返還することを義務付けている。これは一旦生じた不法な状態(監護権の侵害)を原状回復させた上で、子どもがそれまで生活を送っていた国の司法の場で、子の生活環境の関連情報や両親双方の主張を十分に考慮した上で、子どもの監護についての判断を行うのが望ましいと考えられているからである。

2.親子の面会交流の機会を確保する

 国境を越えて所在する親と子どもが面会できない状況を改善し、親子の面会交流の機会を確保することは、不法な連れ去りや留置の防止や子の利益につながると考えられる。ハーグ条約は、親子が面会交流できる機会を得られるよう締約国が支援をすることを定めている。

 日本では、国際離婚の増加に伴い日本人が子どもを連れて帰国して日本にとどまることに対して、子どもを連れ去られた親は異なる法律、文化の壁を乗り越えて、自力で子どもの居所を探し出し、外国の裁判所に子の返還を訴えなければならず、日本に対する国際的な批判が高まっていた。また、日本がハーグ条約を締結していないことから日本人が子どもを連れて日本に一時帰国しようとしても、一時帰国にとどまらず子どもの留置に発展した場合にハーグ条約に基づく返還手続きが確保されないことから外国の裁判所等において日本人が子どもと一緒に日本に一時帰国することが認められないという事態も発生していた。

 このような事から、日本では2011年にハーグ条約の締結の意義が認められ、条約締結のための準備を進めることが閣議了解された。2013年5月22日に衆参両院で条約が承認され、同6月12日に実施法が成立した。そして条約は翌年2014年4月1日に効力が発生して、実施法も施行された。

 それでも外国からの日本人による子どもの連れ去り非難は続く。2018年3月にはEU加盟26ヵ国の在日大使が、日本の法務大臣に、裁判所の決定に反してEU市民が、子どもに会えない事例等が発生していることに対して子どもの権利条約やハーグ条約の遵守を求める書簡を連名で送っている。

 また、2018年5月に米国国務省は 国際結婚破綻時の子どもの連れ去りに関する年次報告で、日本をハーグ条約の「不履行国」に認定している。

 2019年6月、フランスのマクロン大統領が安倍首相に日本人による子どもの連れ去りについて問題提議している。同月に開催されたG20のグループ会議においてイタリアのコンテ首相やドイルのメルケル首相も子どもに対する両親の権利について安倍首相に懸念を表明している。


 ハーグ条約において子どもの返還が拒否できるのは次のような場合である。

1. 連れ去りから1年以上経過した後に裁判所に申し立てられ、子供が新しい環境に適応している場合

2. 申請者が連れ去り時に現実に監護の権利を行使していない場合

3. 申請者が事前の同意または事後の黙認をしていた場合

4. 返還により子供が心身に害悪を受け、または他の耐え難い状態に置かれることとなる重大な危険がある場合

5. 子供が返還を拒み、かつ該当する子供が、その意見を考慮するに足る十分な年齢・成熟度に達している場合

6. 返還の要請を受けた国における人権および基本的自由の保護に関する基本原則により返還が認められない場合


 このようなハーグ条約に関して特筆すべきことは、この条約が前文において「この条約の署名国は、子の監護に関する事項において子の利益が最も重要であることを深く確信し」という書き出しで始まっているものの、前述の子どもの返還を拒否出来る理由において「子どもの最善の利益に反する場合」などの国によって価値基準が異なるような抽象的な概念が排除されていることである。

 日本におけるように離婚後等単独親権制を採用していて、子どもと一方の親との愛着関係を最重視するような価値体系においては、子どもが連れ去られたと非難されたとしても、実際に子どもを監護している親と子どもの関係に問題が認められない場合、そのような父母から子を引き離して元の居住国に返還するという手続きは行われ難いだろう。

 それよりは、申請者が監護権を持っていない場合であるとか、「返還により子供が心身に害悪を受け、または他の耐え難い状態に置かれる」など明らかに児童虐待が行われている場合などに限定した方が、合理的だと言える。もっとも、日本に関して言えば、離婚後等単独親権制の下で「子どもは一方の父母が愛情を持って育てれば十分」というような基本的価値観を結婚や出産の前から持っている父母に対して、他方の親の監護権の侵害や人権侵害を改めて問うことの難しさはあるだろう。これは、国の基本的な法制度と、それに基づく教育や文化の問題である。

 日本は、離婚後等単独親権制の下で一方の父母の監護権の侵害を認めてこなかった。だからこそ、子育てにおいても男女の平等が求められ、子どもの権利条約で示される「子どもが父母に養育される権利」や「父母の共同責任の原則」との適合において矛盾が生じても、基本的な価値体系、法制度の体系を変えることが出来ずに、ハーグ条約への参加が大きく遅れたのだろう。

 それでも、国際的な圧力もあって、2014年に日本がハーグ条約を批准したため、今度は国境をまたぐ父母の監護権の侵害と国境をまたがない日本国内での監護権の侵害に明らかな差異が生じている。本来、父母の監護権の侵害、人の自然的権利の侵害に国境や特定の法律が適用される居住区域の違いを問うべきではない。改めて日本国内の家族法制度を国際条約に適合させる作業が必要になっている。


参照: 法務省 ハーグ条約の概要

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